■トリビア12
天皇が改元しても認められなかった元号がある

 鎌倉時代末期の元徳3年(1331)、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚。天皇は山城国笠置山に逃れて挙兵し、元号を「元弘」へ改元した。しかし鎌倉幕府はそれを認めず「元徳」のままの元号を使い続けた。そのうえ後醍醐天皇を廃位して、光厳天皇を即位させ、笠置山に逃れていた後醍醐天皇を攻めて隠岐島へと配流した。元号が認められないどころか、天皇の座も追われてしまったのだ。

■トリビア13
元号が2つ同時にあった時代がある

 日本の歴史上、同時に2人の天皇が存在した時代がある。南北朝時代(1331~1392)だ。この時代は北朝側が付ける元号と南朝側が付ける元号の2つの元号が並行して存在していたことになる。最終的に南北朝合一が成立して北朝側の「明徳」に統一されるまでの約61年もの長きにわたって同時に2つの元号が存在していた。

■トリビア14
改元が原因で信長に追放された足利義昭

 室町幕府最後の将軍・足利義昭は、将軍職に就いて半年ほど後に「元亀」への改元を朝廷に申し出る。室町時代には幕府の権威のもと将軍(義満など)が実質的な改元を担う場合があった。その例にならって申し出た義昭だったがこの申し出をよしとしなかったのが義昭を将軍職に担いだ織田信長。しかし義昭は信長が越前の朝倉氏を討ちに出陣した隙に改元を実行。改元を認めない信長だったが義昭は言うことを聞かず、信長の逆鱗に触れた義昭は将軍職を解かれ、京から追放されてしまったのだ。

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