この作品は、乃木坂46がデビューしてまだ半年ほどの頃に制作されている。いまだグループのオリジナリティも不明瞭、メンバー個々人の芸能者としての足場も覚束ない段階である。

 その時点で語られる「いつの日か」とは、芸能人として成功しているかどうかもわからない、具体的な像を描きようのない未来だ。作品終盤に登場する岸壁のカットは、西野が未来へと飛躍することを比喩的にあらわすものだが、この先への期待とどこへ着地するかも見えない不安とを綯い交ぜにしたような趣がある。

 そうした不安定な時期を封じ込めているからこそ、撮影から8年を経た現在、この作品を再見すると、また新たな意味が生まれる。本作に今日あらためて触れるとき、我々は作中で得体の知れない未来として語られる「いつの日か」の時点からの眼差しを、当時の彼女に向けることになる。

 現在の我々は、彼女が当時から地続きのキャリアを歩み、今日に至るまでの来歴を知っている。乃木坂46がアイドルシーンの中心に立ったことや、彼女がグループを牽引する存在になったこと等はもちろん輝かしい。

 しかし、より大切かつ普遍的なのは、どのような人生を歩んでいるのであれ、アイドルとしての模索の日々の先に、確かに彼女が生きている今日がある、と実感できることだ。デビュー初年の西野を主役に旅情を描いた本作はそのような感慨を喚起する、「記憶」を封じ込めた貴重なアルバムの1ページである。

乃木坂46「個人PVという実験場」

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